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東京地方裁判所 昭和63年(合わ)245号 判決 1988年3月04日

主文

被告人を懲役三年に処する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六一年六月ころから、東京都葛飾区亀有《番地省略》所在の飲食店「ルビー」に店員として勤め、昭和六二年一〇月二六日も同店内で接客等の仕事に従事していたものであるが、同日午後八時ころ酒に酔ったA(当時五一歳)が、義父のBとともに来店し、先客の二人連れの女性にしきりに絡んだため、二度にわたって注意したが、午後八時三〇分ころになり、またもや右の女性客に絡み始めたので、Aを同人の席に戻したところ、同人から「お前格好つけるな」「いいから表に出ろ」と言われ、肩と腰付近に手をあてられて同店入口の方へ押されるような格好になったので、不快な気分になったもののこれを抑え、店外で同人をなだめて帰ってもらおうとの考えから、そのまま店の出入口付近まで歩いて扉を開けた際、被告人の右肩に置かれていたAの手に肩を掴むように突然力が入ったため、腹立たしさの余り、左側に振り向きざま、左手で同人の右手首を掴み、同人を同店前歩道上へ勢いよく引張り出す暴行を加え、その勢いで同所から約三・四五メートル離れた歩道上に設置されていた石柱に同人の前額部付近を衝突させるとともに同人をその場に転倒させ、よって、同人に対して頭部外傷による頭蓋内損傷の傷害を負わせ、翌二七日ころ、同区亀有《番地省略》のB方において、Aを右傷害に基づく脳挫創、くも膜下出血、硬膜下血腫により死亡するに至らせたものである。

(証拠の標目)《省略》

(弁護人の主張に対する判断)

弁護人は、被告人の暴行はAの急迫不正の侵害から自己の身体を防衛するために行った正当防衛である旨主張するので、この点について判断する。

本件の経緯は判示認定のとおりであるが、さらに、前掲関係証拠によれば、次のような事実、すなわち、被告人は、再三Aに注意を与え、その都度同人を席に戻しているが、Aは、いずれもこれに従っており、被告人に反抗するような気配はなかったこと、しかるに、三回目に席に戻された直後、Aは判示のとおりの言動に出たが、すぐ隣に座っていたBも、またAに絡まれたCも被告人とAが出入口に行ったことをほとんど気に留めておらず、依然として両人の間に険悪な状況は窺われないこと、被告人は二一歳で、身長約一七〇センチメートル、体重約六二キログラムであるのに対し、Aは五一歳で、身長約一五九センチメートルであること、Aは、足がふらつき気味で、歌も大声で叫ぶようにしか歌えず、言葉つきからしても一見して酔っていることがわかる状態であったことが認められる。

ところで、被告人は、出入口の扉を開けた際、突然肩をぎゆっと強く掴まれ、後ろ向きだったので、殴られるか蹴られるか何かされるのではないかと危ない気持がし、とっさにAの手首を掴み強く引張った旨供述しているが、他方で、被告人は、肩に置いてあったAの手に突然力が入ったというのは肩を掴もうとして掴めずに服を掴んだみたいな感じで、そんなに強い力ではない、Aから肩を掴まれた時相手は体が小さく年齢も五〇歳くらいで酔払っていたので怖いとは感じなかった、Aから「表に出ろ」と言われた時も相手は体が小さく酔払っていたので店の外で暴力を振るってくるとは思わなかったし恐怖も感じなかった、Aの手首を掴んで強く引張ったのは、Aから「格好つけるな」とか「いいから表に出ろ」とか言われて不快に思ったが、その気持を抑えていたところ、さらに出入口で肩を掴まれるように急に力を入れられたため、腹が立ってしたものであるという趣旨の供述もしており、これらの供述を総合勘案し、前記認定事実とも対比すれば、Aの有形力の行使は被告人の右肩に置いていた手に肩を掴むように突然力を加えたという程度のものであり、被告人のいう「何かされるのではないかとの危ない気持」も漠然とした不安感にとどまるものと認めるのが相当である。

このように、Aの有形力の行使とそれによって被告人の感じた身の危険とが右の程度を出ていないとすれば、Aの被告人に対する行為は、本件の具体的状況のもとにおいては、被告人が防衛行為に出ることを正当化するような侵害にまでは至っていないというべきである。本件では、弁護人が例示するところの「街を歩いていて突然後ろから襟首を掴まれた場合」とは異なり、Aは被告人の店の客であり、被告人としては酒に酔った客から絡まれても、少々のことであればこれをなだめて穏便に帰ってもらうようにすべき立場にあったこと、被告人は、直前までAの動静を一部終始見ており、同人の年齢、体格、酔い具合もわかっていたこと、場所は被告人が勝手を知った勤め先の出入口であること等の事情があるから、正当防衛を認めるべき状況は未だ現出しているとはいえないのである。

結局、本件においては、刑法三六条一項にいう「侵害」はなかったものと認めるのが相当であり、弁護人の主張は採用できない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇五条一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

(量刑の事情)

本件は、飲食店店員である被告人が店の客である酔払いの言動に立腹してこれに暴行を加えて死亡させたという事案であるが、被告人は多少のことがあっても客である被害者をなだめて争いを避けるべき立場にあったにもかかわらず、体力的にも劣っている被害者に対していきなり強い勢いで歩道上に放り出すという極めて危険な暴行を加えており、結果は被害者の死亡という重大なものであって、被告人の本件犯行は悪質なものというほかなく、被害者の遺族も被告人に対して厳重な処罰を望んでいる。したがって被告人の刑責は重大なものであるが、他方、本件は偶発的犯行であると認められ、被告人の母が被害者の遺族に見舞金として一〇〇万円を支払っていることや被告人が未だ若年で前科前歴がなく改俊の情も認められることなどを考慮し、被告人に対しては、主文掲記の刑を量定したうえ、今回に限り、その執行を猶予するのを相当と認める。

よって、主文とおり判決する。

(裁判長裁判官 佐藤文哉 裁判官 竹花俊德 畑一郎)

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